昨日書いたブログのI am that の言葉が
ほぼ薄れていった今朝、
なぜ薄れていったのだろうと感じてみると
私の中にある、恐れに満ちたエゴ(自我)が力を失い、
ちょこんと部屋の隅に大人しく座っているのを感じた。
本来の自分から分離して、大活躍していたエゴ(自我)が
私を固く小さくしていた恐れのエネルギーを手放したからだった。
その、部屋の隅っこにいるエゴ(自我)は、私だった。
かつて、私が私と認識していた私そのものだった。
I am that
という、大いなるものからの言葉によって、
私というエゴ(自我)が大騒ぎしながら振りまいていた恐れのエネルギーをただ、手放したのだった。
実は、耳元でずっとささやかれていた言葉があった。
「あなたは、自分の身体に痛みがあると
自身は平和ではないのか」と
私のエゴ(自我)は、
「当たり前です!
私は痛みが嫌いなのです。
痛みがあり、不自由がある以上、私は平和ではない」
そう叫び続けて、実はこの肩の痛みも自分で起こしているという事実を揉み消そうとしていた、
自己憐憫に覆われた被害者であり続けようとした。
では、なんのために私はこの肩の痛みを作ったのかを考えてみた。
内観により、ありとあらゆるものが浮かび上がり、それを抱えていた自分を赦した。
やり尽くした、と感じるところまで内観し、
次に来た言葉が
I am that だった。
私と私の周りに何が起ころうとも、私はすでに完全であることを知る経験を自分に与えたのだ、
という事かもしれない。
そんな事をぼーっと考えていたら、
その結果、エゴ(自我)はとても大人しくなり、
むしろ愛おしい存在になった。
恐怖は、人を分離させて無力化するためには、手っ取り早い方法なのだ。
「なんとかしようとするな」
そんなメッセージもずっと感じていた。
次々やってくる恐れに呑み込まれそうになって、足掻いてたどり着いたのは安寧の境地。
エゴ(自我)はほっとしているのかもしれない、
私の役割は終わった、と。
直島にあるオブジェ