ソフィアラディエンス®

日々感じた事、 伝えたいこと、 目に見えない世界、 内面深くを本音でつづります。 最新情報はブログで発信しています。

菩薩の誓願

「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。

 

oshoの言葉

 

人は小さな要求に満足せず、

生命あるものをすべて救済せんとする

高邁(こうまい)な決意をもたなければならない。

そして、いいかね、確証の体験が現れはじめても、

すぐに満足してしまってはいけない。

 

涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。

涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。

だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。

小さなことで満足してはならない。

 

それらが起こりはじめたことを喜び、

それらを道標(みちしるべ)と見なしなさい。

だが、そこはまだ目的地ではない。

それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、

確証の体験がやって来る方向に進みつづけるのだ。

小さな要求で満足してはならない。

 

例えば、安らぎは小さな要求だ。

それはたやすく達成することができる。

緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。

それは大したことではない。

心安らかで心配や不安がないというのは、

それほど大したことではない。

では、偉大なこととは何だろう?

人は目標として何を胸に抱きつづければよいのだろう?

 

生命あるものをすべて救済せんとする

高邁(こうまい)な決意をもたなければならない。

これが判断の基準になっていることにあなたは驚くだろうが、

それはいつも判断の基準とされてきた。

 

仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。

 

内なる中心に近づけば近づくほど、

この世界に住む生きとし生けるすべてのものの

苦しみを感じるようになってゆく。

一方では深い穏やかさと静けさを感じ、

一方では苦悩するすべてのものたちへの深い憐れみを感じはじめる。

 

苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。

どこもかしこも苦しみで満ちている。

 

一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、

一方では深い悲しみもまた湧いてくる。

 

何百万もの人々が苦しんでいるからだ――

それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。

あなたが味わっている至福を達成することは、

彼らの生得権でもある。

 

だから、もう自分は至福に満ちているから、

すべては終わったのだと満足してはならない。

あなたが至福に満ちるようになっても、

すべてが終わったわけではない。

 

今や旅は新たなる方向へと転じる。

覚者(ブッダ)の境地を達成し、わが家にたどり着いたら、

いよいよ真の仕事(ワーク)がはじまる。

これまでは夢にすぎなかった。

 

今や、他の人々が夢から出てくるのを助ける真の仕事がはじまる。

弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。

キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。

 

それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。

彼らはそれを誤解してきた。

 

彼らはイエスだけがキリストであると考えている。

「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。

それは誓いだ。

 

自分が救われたら、

あらゆるものを救わなければならないというのがその誓いだ。

苦しみから救われることは無上の喜びだが、

他の者たちを苦しみから救ってゆくことと比較すれば何でもない。

 

自分が苦しみから救われることは、

依然として自己中心的であり、

自己に焦点が合わせられている。

自己の何かが依然として残っている。

 

あなたは自分のことにしか関心がない。

あなたが救われたからといって、

どうしてその旅をやめることができるだろう?

さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。

エスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。

 

だが、彼が唯一のキリストではない。

彼の前にもたくさんのキリストがいたし、

彼の後にもたくさんのキリストがいた。

これからもたくさんのキリストが現れるだろう。

 

覚者(ブッダ)になる者はみな、

必然的にあらゆる者を救済しなければならない。