前正覚山とは、ブッダが6年間苦行の為にこもった山で、
ふとイエスが40日間断食をした誘惑の山と比較してみると、誘惑の山はものすごく険しい場所にあったけれど、ブッダのこもられた山はやさしい道のりで低い山だった。
その山に向かう途中に難民の子供たちが沢山いるということで、
「喜捨をしますか?」
とガイドさんに尋ねられ、
「それを観光客がしてよいのであれば、喜んで!」
ということで前もってお菓子を買って準備をした。
喜捨ということは初めての経験だった。
山を登っていく道すがら、子供や、年老いた老人などがずら~っと並んで座っている。
一人一人にお菓子を配らせていただいた。
子供たちはみんなかわいい。
お菓子を私の手から子供たちに渡すのだけれど、あったくて、優しい喜びのエネルギーがほわ~っと返ってくる。
それを歩きながら繰り返していると、お菓子を喜捨しているのは私だけれど、満ち足りた幸せの大きなエネルギーをいただいているのは、私の方だったということに気付いた。
それは、私の差し出したお菓子などと比べようもないほど尊く、大きなあったかいものだった。
喜びを持って与えるとは、それ以上のものを受け取ることになるのだろうか。
貴重な体験をさせて頂いた前正覚山、11月11日。
帰り道、ずっど私のそばを歩いて話しかけようとしてくれた男の子二人。
やんちゃそうに写っているけど、可愛くて優しい子たちだった。
心の豊かさとは、どんな環境にいたとしても親に愛されることから生まれる。
そんなことを感じた。
そういえば、以前こんな文章を読んだことがあった。
「愛のない立派な城で育った人と愛ある貧しい家で育った人、どちらが幸せで生きてゆく力があるか、それは後者である」
インドにはもっともっと大変な子供たちがいることも実感した。
でも日本の方が幸せとは言い切れない。むしろ逆かもしれない。
マザーテレサも、日本の方が深刻であると言っておられた。
愛の反対は無関心であると。
感謝